山川、若手頑張るの限界

最近、アーチェリーの歴史の整理で世界史に再度触れているのですが、研究者界隈ではこの50年ほど、自分が暗黒時代として習った中世が再評価されています。詳細は「中世とは何か( J.ル・ゴフ)」でもどうぞ。

それはさておき、興味本位で教科書では教えられ方が変化したのか気になって、調べてみました。

一般的に使用されている山川をみてみると、昔よりも言い方が若干柔らかいものになっていますが、基本的にはこの時代について否定的な書き方をまだしています。この教科書は10人の歴史家によって書かれているのですが、なんと、そのうち生き残っているのは4人だけという低い生存率のロングセラー(*)です。先輩たちによって書かれ磨かれてきた本文を、若手が書き換えるのは簡単ではないということなのでしょうね。

*史学会編『世界史概観』山川出版社、1949 年に起源を持つ教科書とのこと

この新時代区分は、ここ30-40年のあいだに欧米の歴史学会で受け入れられ、現在では広く認められている。

P.130

中世末期の文化の一つとして「ルネサンス」を配置する教科書も現れた。

P.136

生きてる書き手は、本文に変化をもたらすことができない代わりに、本文とは関係ないコラムを使って、なんとか最新の理解を学生に届けようと苦労している模様、頑張ってください。それにしても、欧米の中世の話である以上、「欧米の歴史学会で受け入れられ」ているんなら、日本のベテラン勢の認知を待つ必要あるん(笑)

大学院に行こうとはまだ思っていますが、その界隈に近づくほど、若干めんどい世界だというのが見えてきたかも。

30年前に問題提起をした論文はこちらです。1985年。

研究ノート 世界史教科書にみる中世とルネサンスの記述について : 暗黒の中世とルネサンスの春と

東京パニーノ 東京駅

ポテサラはツナ入りで残した…

マナー本など読んだことはなかったのですが、読んでみたら結構わかっているのですね。ちょっと印象が変わりました。

中流階級の人々は、ふるまいと生活習慣だけでも貴族と同じになろうとした。そのための教科書がエチケット・ブックである。(中略)「エチケットの本を書く」のは貴族にとっては恥と思われていた形跡もあるが、高貴な身分をうたう筆名の裏に、実態は殆どなかったというのが真相に近いところだろう。

英国社交界ガイド 村上リコ

面白いっすw 個人的にはマナーは言葉に近いものだと思っています。20年近く国際ビジネスをしていますが、英語はそれほど得意じゃありません。海外と仕事をするのに必要なのは言語力ではなく、技術です。相手にとって必要な情報技術を持っていれば、取引先が日本語の通訳を付けてくれることもあります。喋れるかではなく、何を喋るかが大事です。

相手にとって自分が大事な存在であれば常識で十分でしょう。相手にとって自分が大事でないときに必要とされるのがマナーなのかなと思います。

国立国会図書館の帰り、東京駅(改札内)には高級なお店もありますが民度が低いことが多く、こちらの店はいい立地(10番線と東海道新幹線の改札のあたり)なのに、落ち着いてゆったりできました。メニューには出来上がりまでの時間まで書いてあり、いいお店を見つけたかも。

東京パニーノ アロマフレスカ

リンク貼ったら、パニーニのサイズが小さいとの口コミ…旅の前にそんなにガッツリ腹一杯にしたい人いるのね…知らぬ世界。

マナーのプロ

1895 Henley Royal Regatta

昨日の記事を書いてから、この話広がらないかなと思って一晩家飲みしたのですが、考えれば考えるほど面白い話だと思った次第です。

日本で一般的にプロ・アマ問題というと野球の話だと思う人が多いのかもしれませんが、スポーツ全般におけるプロ・アマ問題というものは、スポーツの主体に関する問題です。

ローズ・クリケット場のような大規模な常設専用競技場が登場したのもこの時期の特徴であろう。もっとも、大部分のスポーツはいまだ共有の空き地や公道で行なわれていたし、観客は文字どおり「見物人」で、入場料が徴収されることはほとんどなかった。

すでにプロ選手もいた。19世紀末に登場し、現代へと繋がるプロとは違い、彼らはジェントルマンの遊び=スポーツのために働く使用人[サーヴァント]の一種であった。実際、19世紀初め頃までのクリケットのプロ選手の中には、ジェントルマンの屋敷の庭師や猟場番を務める者がいたし、ボクサーの中には貴族のボディガードを兼ねる者もいた。クリケットでは、彼らはプレーヤーと呼ばれ、ボクシングではピュジリスト、競馬の騎手はジョッキー、狩猟ではハンツマンなど、それぞれが個別の名称で呼ばれた。逆に、彼らを雇うジェントルマンたちは、どのようなスポーツを行なう場合でもスポーツマンまたはジェントルマンの名で呼ばれ、またそれを自称した。同じスポーツに関わっていても、ジェントルマンにとってのそれは娯楽であり、プロにとってのそれは労働だったのである。

スポーツの世界史 坂上康博, 中房敏朗, 石井昌幸, 高嶋航 編著 一色出版, 2018.9

ちゃんと定義すると記事が長くなりますが、簡単にいえば、アマチュアリズムにおいて、主体はアマチュア(ブルジョワジー=ジェントリー)であり、金銭を得て働くプロは労働者(プロレタリアート)に過ぎないわけです。

自分に慣れ親しんだスポーツ業界におけるこの関係が、そのままマナーの業界にも当てはまることに少し驚き、もう少し深く勉強してみようと思いました。

例えば、学術研究においてはそんな訳はなく、プロの研究者が研究した結果を、プロの教育者が一般化していき、最終的にはアマチュアである学生に教育がされます。プロの研究者が主体であるのは間違いありません。相対性理論を書きかげたアインシュタインが一番偉いのです。

しかし、マナーの(ここでは食事のマナーを前提に)プロは何も生み出さず、逆にアマチュア(貴族や資本家)が生み出したマナー文化を無批判に受け入れ、それを次の世代の無知なアマチュアに再生産をしていくわけですが、プロなのに労働者に過ぎす、自身が主体になることがないという点では、スポーツのプロ・アマ問題と同じ構図にあるように思うのです。マナーのプロとして生徒にグランメゾンでの貴族の晩餐会での立ち振舞を無知な生徒に教えることをしても、自身がその場に主体的に参加することは一生ないでしょう。

スポーツの世界ではもうアマプロ問題はありません。オリンピックでは74年にアマチュア規定が削除され、多くのプロ選手がスポーツで活躍しています。対して、マナーの世界でプロがアマを超えて活躍する日が来るとは…ないでしょう。面白い。

次回7日に国立国会図書館に行く予定なので、それまでに収集する資料のリストアップをしましょう。