
AIが日々進化して、どんどんと新しい遊びができるようになって、本当に毎日が刺激的です。昨日、途中つまらなくなって若干寝落ちしそうになりましたが、「無知の世界史」をほぼ読破しましたが、前半の議論を良かったものの、後半のブレブレな議論は…歴史ではなく、政治運動でもしたいのかな?
今までならもう少し考えてみるか、ぼちぼちの本を読んだなとするしか無いわけですが、AIのお陰で本に本をぶつけて、議論を出力できるようになりました。これはすごいですよ。
わかりやすく言えば、「夏目漱石の人物伝」という本があるとしたら、そこに「ニーチェ入門」という理論をAIに与えて、この文脈で夏目漱石をニーチェの思想をベースに論評してください。ということが、現在で言えば、10円くらいのコストでできるのです。そして、その文書は2冊の本を読んでいれば、ハルシネーション(AIがつく嘘)かどうかは容易に判断できるので、有用で刺激的です。
お陰様で、この本の何がつまらんのか一発でわかりました。西洋史観に自覚的なのに、そこから抜け出せていないのです。
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ラトゥールは近代の自己理解が二つの大分割に依存していると論じた。内部の大分割(自然と社会の峻別)と外部の大分割(西洋と非西洋の峻別)である。バークの著書はこの外部の大分割に対して形式的には自覚的である。非西洋の知の伝統にも言及し、孔子や老子から議論を始めている。しかしその扱いは構造的に非対称である。
第2章で中国の哲学的伝統が数ページで概観された後、本書の圧倒的な分量は西洋の認識論的伝統に費やされる。非西洋の知の体系は、西洋の認識論的枠組みの中に翻訳可能な断片としてのみ登場する。ラトゥールが求めた対称的人類学の原則――真理と誤謬、自然と社会、西洋と非西洋を同一の分析枠組みで扱うこと――は実現されていない。
より根本的な問題は、バークが無知を分析する際の基準そのものが、近代西洋の科学的知識を暗黙の規範としていることである。宣教師が先住民の信仰を無知と見なしたことをバークは批判するが、本書自体の分析枠組みが、近代科学的知識の有無を判定基準とする点では同じ構造を反復している。ラトゥールが指摘したように、科学は自然の真理に到達する唯一の方法ではなく、より多くの非人間を動員しネットワークの長さを拡張する実践である。この認識が欠けているため、バークの「グローバルな歴史」は実質的には近代西洋のカテゴリーによる世界の測量にとどまっている。
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