昨日の記事を書いてから、この話広がらないかなと思って一晩家飲みしたのですが、考えれば考えるほど面白い話だと思った次第です。
日本で一般的にプロ・アマ問題というと野球の話だと思う人が多いのかもしれませんが、スポーツ全般におけるプロ・アマ問題というものは、スポーツの主体に関する問題です。
ローズ・クリケット場のような大規模な常設専用競技場が登場したのもこの時期の特徴であろう。もっとも、大部分のスポーツはいまだ共有の空き地や公道で行なわれていたし、観客は文字どおり「見物人」で、入場料が徴収されることはほとんどなかった。
すでにプロ選手もいた。19世紀末に登場し、現代へと繋がるプロとは違い、彼らはジェントルマンの遊び=スポーツのために働く使用人[サーヴァント]の一種であった。実際、19世紀初め頃までのクリケットのプロ選手の中には、ジェントルマンの屋敷の庭師や猟場番を務める者がいたし、ボクサーの中には貴族のボディガードを兼ねる者もいた。クリケットでは、彼らはプレーヤーと呼ばれ、ボクシングではピュジリスト、競馬の騎手はジョッキー、狩猟ではハンツマンなど、それぞれが個別の名称で呼ばれた。逆に、彼らを雇うジェントルマンたちは、どのようなスポーツを行なう場合でもスポーツマンまたはジェントルマンの名で呼ばれ、またそれを自称した。同じスポーツに関わっていても、ジェントルマンにとってのそれは娯楽であり、プロにとってのそれは労働だったのである。
スポーツの世界史 坂上康博, 中房敏朗, 石井昌幸, 高嶋航 編著 一色出版, 2018.9
ちゃんと定義すると記事が長くなりますが、簡単にいえば、アマチュアリズムにおいて、主体はアマチュア(ブルジョワジー=ジェントリー)であり、金銭を得て働くプロは労働者(プロレタリアート)に過ぎないわけです。
自分に慣れ親しんだスポーツ業界におけるこの関係が、そのままマナーの業界にも当てはまることに少し驚き、もう少し深く勉強してみようと思いました。
例えば、学術研究においてはそんな訳はなく、プロの研究者が研究した結果を、プロの教育者が一般化していき、最終的にはアマチュアである学生に教育がされます。プロの研究者が主体であるのは間違いありません。相対性理論を書きかげたアインシュタインが一番偉いのです。
しかし、マナーの(ここでは食事のマナーを前提に)プロは何も生み出さず、逆にアマチュア(貴族や資本家)が生み出したマナー文化を無批判に受け入れ、それを次の世代の無知なアマチュアに再生産をしていくわけですが、プロなのに労働者に過ぎす、自身が主体になることがないという点では、スポーツのプロ・アマ問題と同じ構図にあるように思うのです。マナーのプロとして生徒にグランメゾンでの貴族の晩餐会での立ち振舞を無知な生徒に教えることをしても、自身がその場に主体的に参加することは一生ないでしょう。
スポーツの世界ではもうアマプロ問題はありません。オリンピックでは74年にアマチュア規定が削除され、多くのプロ選手がスポーツで活躍しています。対して、マナーの世界でプロがアマを超えて活躍する日が来るとは…ないでしょう。面白い。
次回7日に国立国会図書館に行く予定なので、それまでに収集する資料のリストアップをしましょう。