沖縄いけなかった旅

旅の始まりは…久々に旅行に行こうと思っていましたが…台風によって決行がまさかのスタート。しかも、今絶賛炎上中のANAです。予想通り全く連絡はつかず、なんともしようがないので、直接ANA(羽田)に行くことに。

カウンターも長蛇の列でしたが、無事で書類をゲット。往復便ではなく、別々の予約を取ったので、帰りのスカイマークにも。

イレギュラーはやっぱりカウンターが早いですね。往復・現地ホテル、すべて無料でキャンセルできました。ありがたい。

同行者が月曜日から仕事なので、戻れなくならないよう、キャンセルになった空路の代わりにすべて電車で移動に。目的地を伊勢に変更。

名古屋で手羽先を手羽先と思ったら金曜夜で2時間待ち、下の階の新時代へ。

ホテルは松坂に

駅前の24時まで営業しているバー ワンダーホリックさん

土曜日、まずは伊勢へ

美術館のタダ券もらったけど行く時間なかった。

赤福で抹茶かき氷、2日連続で明日も食べるとは思わず。。

脳がとろけるビーーール

賢島まで行ってみる。船は時間が合わず

海上カフェへ 海上海鮮酒場 さざ波食堂

楽天でバカみたいな価格で転売されている而今が1,100円で普通にある、さすが三重!!

松坂帰り、鳥羽で乗り換えの電車に乗ったので、ミキモト真珠島へ。

海女の作業見学会

帰りは一升びん、駅から一番近い発祥店へ。うまい!!

大阪泊、今思えば、神戸泊でも良かったのかも

三日目は神戸で神戸牛ランチから 鉄板ダイニング 法貴

帰り道の寄り道は、浜名湖ボートレースへ。マイナス2000円。

浜松餃子 遠州男唄 濱松たんと

欠航による沖縄の航空券+ホテルの返金額 細かい出費を抜けばその金額内には収まった気がします。

次は秋にどこか行きたいっすね。

移住には向かない人

(イメージです)

朝、ウトウト、ニュースチェックでツイッターを見ていたら、なんか見た。記事を書くにあたって、再検索したら見つからなかったので、上の写真はイメージですが…23区生まれの人間は地元の悪口を言い慣れています。こういう記事を書く人って…どんな田舎者記者なのか見てみたい一方、上京組ばかりだからできることだと感じるわけです。

今私は静岡県に住んでいるわけですが、静岡市の中心部の家賃が過去最高を更新しても、静岡新聞・熱海新聞等はローカルを重視しているので「静岡市〇〇区はもう住む場所じゃない」といった表現は絶対に使わないでしょう。地方のマスゴミにもまだ、実際にそこに生まれ、そこに住んでいる人間に対する想像力があるわけです。東京に上京した子にはないのでしょうね。

移住して4年目になりますが、熱海出身の人の前で、スラスラと熱海に移住した不満なことを言える人が実際にいるわけです。その意味では、生まれからして、「住む場所じゃない」「冷たい」「どこ行っても行列」「外国人しかいない」など、言われ続けてきた23区生まれの人は、「だったら地元帰れよ」というツッコミを常に我慢して生きているので、移住に向いているのではないかと思ったりするわけです。

つまり…人様の郷土・田舎に強制連行ではなく、自分で引っ越したんなら、その場所を愛してください。できならなら帰ったほうがよろしいかと。

そう、太陽は肛門です。

なぜ嫌われるのか…語りの自律性

飲み屋でのんでいれば、人間としての付き合いがあれば、嫌われることもありますが、何度か意味不明に嫌われたことがあります。理解できない悪口を言われることがあります。が、先日、ちょっとした会話の中で、語りの自律性(narrative autonomy)という概念の導入で分析できるなと思い立った次第です。

語りの自律性とは、簡単に言えば自分の言葉で喋ることですが、人間関係・職場関係・地域での立場などから、自分の言葉で喋ることができない人間も存在することは理解してはいますが、自分の言葉で喋る人間が隣にいること自体が、一種の権力性・暴力性を持ち、その嫌悪の対象は行為(何をしたか)ではなく、存在様式にあるのだと41歳になって気づくのです。まぁ…嫌われても、しゃーーーないか。

下記、AI生成


「語りの自律性(narrative autonomy)」を確立し、自らの文脈で生きる存在に対して、それを持ち得ない(あるいは既存の物語に従属している)存在が抱く嫌悪感や反発は、社会心理学、哲学(ニーチェのルサンチマン理論など)、そしてナラティブ理論において非常に深い議論がなされるテーマです。

この嫌悪感は、単なる「嫉妬」や「好き嫌い」のレベルにとどまりません。本質的には、「自己の存在基盤を脅かされる恐怖」「支配的な規範への過剰適応が生む歪み」から生じています。

その心理的・社会的なメカニズムを4つの視点から分析します。


1. 認知の不協和と「鏡」としての他者

ドミナント・ストーリー(社会的な標準、既存の役割、他者からの評価軸など)に過剰に適応して生きている人にとって、語りの自律性を持つ者は「自分が抑圧している可能性」を突きつける鏡として機能します。

  • 「私は我慢している」という前提の崩壊:「社会とはこういうものだ」「人生とはこう生きるしかない」と自分を納得させ、不自由さを受け入れてきた人にとって、そこから脱却して自らの物語を生きる他者の姿は、「自分も本当は違う生き方ができたのではないか」という痛烈な自己疑念(認知の不協和)を生じさせます。
  • 不自由さの自己正当化:この内なる不快感から逃れるため、脳は「あいつの語りは間違っている」「身勝手だ」「異常だ」と相手を否定(嫌悪)することで、現在の自分の不自由な状態を正当化しようとします。

2. 秩序の防衛本能と「ドミナント・ストーリー」の揺らぎ

社会や集団が共有するドミナント・ストーリー(例:「伝統的な家族観」「標準的なキャリアパス」「被害者/加害者という記号的枠組み」)は、多くの人にとって世界の予測可能性を担保するシェルターです。

  • マジョリティの特権と安心感の防衛:語りの自律性を持つ者が、「あなたの定義した枠組みには収まらない」と独自の語りを始めるとき、既存の物語に依存して安心感を得ていた人々は、世界全体の秩序が揺るがされるような恐怖を覚えます。
  • 「異分子」の排除:この恐怖は、しばしば「共通のルールを乱す不謹慎な存在」への怒りに変換されます。自分の物語を持たない(=既存の物語に身を委ねている)側は、集団のシステムを維持するために、自律的な語り手を「生意気だ」「輪を乱す」として激しく攻撃し、排除しようとするのです。

3. ルサンチマン(生の受動性への憤り)

ニーチェのいう「ルサンチマン(強者や自由な者に対する、弱者の怨恨・復讐心)」の構造がここに現れます。

  • 受動性と能動性の非対称:自分の物語を持たない者は、常に他者の物語の「登場人物」や「観客」という受動的なポジションに甘んじています。一方で、語りの自律性を持つ者は、自分の人生の「作者(主体)」です。
  • 価値の反転による攻撃:この圧倒的な非対称性に直面したとき、持たない側は「能動的に生きること」そのものを悪とみなし、「受動的でいること(耐え忍ぶこと、同調すること)」を美徳とする価値の反転を行います。結果として、自分の言葉で語る者を「自己主張が激しい」「傲慢だ」と道徳的に非難することで、精神的な優位に立とうとします。

4. 言語(コード)の共有不可能性が生む不気味さ

語りの自律性を持つ者は、社会が用意した既製の言葉ではなく、自らの経験に根ざした独自の言葉や文脈(オルタナティブ・ストーリー)を用います。

  • 「理解できないもの」への嫌悪:既存のコード(通念)だけで会話をしている側からすると、独自の文脈で語る者のロジックは、一見すると「理解不能で不気味なもの」に映ります。人間は、自分がコントロールできない、あるいは既存のカテゴリーに分類できない対象に対して、本能的に強い嫌悪感や警戒(「怪しい」「信用できない」)を抱く傾向があります。

結び:嫌悪感の正体

総じて、語りの自律性を持つものに対する嫌悪感とは、「既存の物語に従属することでかろうじて保たれている自己のアイデンティティ」が、自律的な他者の存在によって脅かされたときに生じる防衛反応であると言えます。

それは相手への個人的な攻撃であると同時に、本質的には「自分自身の人生のプロットを他者に握られていること」に対する、無意識下の悲鳴や絶望の裏返しでもあるのです。