
2月に訪問した新潟のぽんしゅ館、7月から値上げはいいのでが、まさかの値段が倍に!! 上げすぎ…まぁ、2月に行っといてよかったです。
今日新しく米が届きましたが、5キロで3200円、米の値段は落ち着いてきましたね。

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明日、川崎の物件が売れる。東中野も売ったし、残るは網代の家だけになった。ついに1拠点生活。41歳。まぁ、悪くもない折返しかなと思う。

飲み屋でのんでいれば、人間としての付き合いがあれば、嫌われることもありますが、何度か意味不明に嫌われたことがあります。理解できない悪口を言われることがあります。が、先日、ちょっとした会話の中で、語りの自律性(narrative autonomy)という概念の導入で分析できるなと思い立った次第です。
語りの自律性とは、簡単に言えば自分の言葉で喋ることですが、人間関係・職場関係・地域での立場などから、自分の言葉で喋ることができない人間も存在することは理解してはいますが、自分の言葉で喋る人間が隣にいること自体が、一種の権力性・暴力性を持ち、その嫌悪の対象は行為(何をしたか)ではなく、存在様式にあるのだと41歳になって気づくのです。まぁ…嫌われても、しゃーーーないか。
下記、AI生成
「語りの自律性(narrative autonomy)」を確立し、自らの文脈で生きる存在に対して、それを持ち得ない(あるいは既存の物語に従属している)存在が抱く嫌悪感や反発は、社会心理学、哲学(ニーチェのルサンチマン理論など)、そしてナラティブ理論において非常に深い議論がなされるテーマです。
この嫌悪感は、単なる「嫉妬」や「好き嫌い」のレベルにとどまりません。本質的には、「自己の存在基盤を脅かされる恐怖」や「支配的な規範への過剰適応が生む歪み」から生じています。
その心理的・社会的なメカニズムを4つの視点から分析します。
ドミナント・ストーリー(社会的な標準、既存の役割、他者からの評価軸など)に過剰に適応して生きている人にとって、語りの自律性を持つ者は「自分が抑圧している可能性」を突きつける鏡として機能します。
社会や集団が共有するドミナント・ストーリー(例:「伝統的な家族観」「標準的なキャリアパス」「被害者/加害者という記号的枠組み」)は、多くの人にとって世界の予測可能性を担保するシェルターです。
ニーチェのいう「ルサンチマン(強者や自由な者に対する、弱者の怨恨・復讐心)」の構造がここに現れます。
語りの自律性を持つ者は、社会が用意した既製の言葉ではなく、自らの経験に根ざした独自の言葉や文脈(オルタナティブ・ストーリー)を用います。
総じて、語りの自律性を持つものに対する嫌悪感とは、「既存の物語に従属することでかろうじて保たれている自己のアイデンティティ」が、自律的な他者の存在によって脅かされたときに生じる防衛反応であると言えます。
それは相手への個人的な攻撃であると同時に、本質的には「自分自身の人生のプロットを他者に握られていること」に対する、無意識下の悲鳴や絶望の裏返しでもあるのです。

Barには止まり木という意味もあるそうです。やっと本物のBarになったでしょうか。
(衛生上の問題により、すぐにお帰りいただきました)

AIが日々進化して、どんどんと新しい遊びができるようになって、本当に毎日が刺激的です。昨日、途中つまらなくなって若干寝落ちしそうになりましたが、「無知の世界史」をほぼ読破しましたが、前半の議論を良かったものの、後半のブレブレな議論は…歴史ではなく、政治運動でもしたいのかな?
今までならもう少し考えてみるか、ぼちぼちの本を読んだなとするしか無いわけですが、AIのお陰で本に本をぶつけて、議論を出力できるようになりました。これはすごいですよ。
わかりやすく言えば、「夏目漱石の人物伝」という本があるとしたら、そこに「ニーチェ入門」という理論をAIに与えて、この文脈で夏目漱石をニーチェの思想をベースに論評してください。ということが、現在で言えば、10円くらいのコストでできるのです。そして、その文書は2冊の本を読んでいれば、ハルシネーション(AIがつく嘘)かどうかは容易に判断できるので、有用で刺激的です。
お陰様で、この本の何がつまらんのか一発でわかりました。西洋史観に自覚的なのに、そこから抜け出せていないのです。
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ラトゥールは近代の自己理解が二つの大分割に依存していると論じた。内部の大分割(自然と社会の峻別)と外部の大分割(西洋と非西洋の峻別)である。バークの著書はこの外部の大分割に対して形式的には自覚的である。非西洋の知の伝統にも言及し、孔子や老子から議論を始めている。しかしその扱いは構造的に非対称である。
第2章で中国の哲学的伝統が数ページで概観された後、本書の圧倒的な分量は西洋の認識論的伝統に費やされる。非西洋の知の体系は、西洋の認識論的枠組みの中に翻訳可能な断片としてのみ登場する。ラトゥールが求めた対称的人類学の原則――真理と誤謬、自然と社会、西洋と非西洋を同一の分析枠組みで扱うこと――は実現されていない。
より根本的な問題は、バークが無知を分析する際の基準そのものが、近代西洋の科学的知識を暗黙の規範としていることである。宣教師が先住民の信仰を無知と見なしたことをバークは批判するが、本書自体の分析枠組みが、近代科学的知識の有無を判定基準とする点では同じ構造を反復している。ラトゥールが指摘したように、科学は自然の真理に到達する唯一の方法ではなく、より多くの非人間を動員しネットワークの長さを拡張する実践である。この認識が欠けているため、バークの「グローバルな歴史」は実質的には近代西洋のカテゴリーによる世界の測量にとどまっている。