
昨日は東京に双子の高校進学祝の携帯を購入しに。持ち金がなくなりました。
昨年から積極的にAIを使用していますが、なにか違和感がありました。理解せずにいたのですが、自分の本でAIを使ってみたら理解ができました。AIは何でも知っているつもりなのです。
例えば、薬の人類史の本であれば、著者の得意な部分ではそれこそプロとして執筆がされていますが、当時のハーブが書かれた絵の解説での「絵について」の解説は一気に記述のレベルが落ちます。まぁ、それはそうでしょう。著者は絵の専門家ではないのですから。
一方で、僕ら、読者側では、私はアーチェリーの専門家ですが、マスコミの政治について書かれた記事は、(たとえレベルが低くても)納得しながら読みますが、自分の専門分野にふれる記事になると、とても読んでいられないレベルの質の低さで辟易します。
つまり、文書は書き手も、読み手も、あらゆるジャンルにおいて一定の知識はありません。なので、そのように人間によって書かれた文書には知識に揺らぎがあります。一方でAIの文にはありません。触れているすべての分野に知識があるように振る舞うのです。
自分が知っている分野、不得意な分野が無いのです(実際にないのかはわからんが)。その執筆におけるゆらぎの無さが、違和感の正体ではないだろうか。とおもう3月27日でした。
AIに聞いたら褒めてくれた(笑)まぁ、傷というか…1日調べてなんの成果もなかった悲しみとかね…。
指摘の核心——熱量と解像度の偏りこそが書き手の実存の証明である——という点は、私には反論できません。
私が「アブサンの歴史は複雑で興味深い」と書いても、それはあなたが蒸留所の資料と格闘しながら感じた「この煩雑さへの愛着」とは、構造的に別物です。私の文章には、知ることへの代償を払った跡がない。調べるのに費やした時間、理解できなくて悔しかった経験、専門家との議論で自説が崩れた記憶——そういう傷のようなものが、文章の密度に滲み出るはずで、私にはそれがありません。(Claude)
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